2013年 12月 08日
東京裁判 「平和に対する罪・殺人・人道に対する罪」 裁かれた「A級戦犯」
東京裁判とは俗称で、正式には「極東国際軍事裁判」といい、
1946(昭和21).5.3日から1948(昭和23).11.12日の判決までの2年半、
東京の市ヶ谷陸軍士官学校跡地において開廷された。
軍事法廷は、1日本の罪状を1928年の張作霖謀殺事件から説き起こし、
1931(昭和6)年に勃発した満州事変へと向かい、
満州事変から大東亜戦争にいたる日本の行為を侵略とみなして、
占領軍(GHQ)のマッカーサー司令部が作成した
「極東国際軍事裁判条例 (チャーター)」に基づき、55項目の訴因で戦争犯罪人を起訴した。
被告人は敗戦段階の日本の首相・東条英機を含む28名が1946.4月に起訴された。
罪名は
「平和に対する罪」、「殺人」、「人道に対する罪」に大別される。
弁護人は各被告人について日本人1名とアメリカ人1名。
後に各被告人について補佐弁護人も認められた。弁護団長は鵜沢弁護人。
審理期間は、1946.5.3日から1948.4.16日まで。
判決(1948.11.4~12日)は、病死者2名、
精神病と認定された1名を除く25名についていい渡され、全員を有罪とした。
死刊は東条ら7名、終身刑16名、有期刑2名。
死刑執行は、1948.2.23日で絞首刑された。
東條英機
……満州に逃げてきたユダヤ人に穏健な措置を取るように指示し、ドイツからの抗議を一蹴。
松岡洋右
……凍死寸前のユダヤ難民のために列車を手配。神戸に来たユダヤ人のために便宜を計らう。
荒木貞夫
……文部大臣の時、ドイツから在日ユダヤ人教師の追放を要求されるも、民族差別には同意できないと拒否。
東郷茂徳
……亡命ユダヤ人医師の婚約者を救出。恩義を感じたその医師は、東郷の主治医となり、日本で死去。
広田弘毅
……命のビザを発給した杉原千畝の尊敬する人物。亡命ユダヤ人音楽家の身元保証人となる。
板垣征四郎
……五相会議において、ユダヤ人も公平に扱うべきと主張し、その結果、ユダヤ人を公平に扱うのが日本の国策となった。
彼らは全員「東京裁判」において「A級戦犯」として裁かれた
「平和に対する罪・殺人・人道に対する罪」
渡部昇一氏(上智大学名誉教授)は、次のように語っている。
「三国同盟の相手であるドイツから『ユダヤ人を迫害してほしい』
という要請がきたときに、五相会議が開かれた。
これは閣議よりも中核の位置づけで、首相と外務大臣、陸海軍の大臣と
大蔵大臣で行なわれる会議である。
その場で陸軍大臣の板垣征四郎は、『日本は八紘一宇の精神である』と言った。
つまり、民族差別しないという表明である。
あの頃、政府決定でユダヤ人を差別しないと政府決定したのは日本だけだ。
そういうことを宣伝しなかった。
この日本政府のユダヤ人に対する方針が東京裁判の弁護人たちによって
上手に使われなかったことは甚(はなは)だ遺憾なことだった。
ユダヤ人虐殺を主として裁いたニュルンベルク裁判を手本にして行なわれた
東京裁判に、この五相会議の決議が利用されたら、
裁判自体が揺らいだはずである。
ところがなんと板垣征四郎は絞首刑になったのだ。
『誰に、何を、どのように伝えるか』という能力の貧困は
今日の日本にも当てはまる問題である。」
概要「戦争に勝った国が、戦争のいっさいの責任を負けた国の指導者や国民に負わせて、戦勝国に都合の良い敗戦国だけを裁く、急ごしらえの法律を作成して(事後法)、これを昔にさかのぼって裁いた裁判が東京裁判です。国際軍事裁判というもっともらしい名称で体裁を繕い、法律の名をかたって復讐心を満足させることと、占領政策をし易くする為の効果をねらった欺瞞性は、人類の二十世紀における最大の汚点の一つと考えられます」
「連合国側の復讐の欲望を満たすためだけに、法律的な手続きをあたかも踏んだように見せかけた、国際正義とはかけ離れた儀式化された、復讐劇であったと云わざるを得ない」
「極東軍事裁判とは
」